近津尾神社 歴史

近津尾神社 社誌より

【創建・由緒】

当神社は、承安3年(1173年)の創建とされています。古くは「近江尾之八幡宮」と称していましたが、この読みは”ちかつおの八幡宮”で、近江の古称”近淡海(ちかつあはうみ)”の八幡宮、すなわち「近江国の八幡宮」に由来する古く大きな名前を持っています。また平城京の陪都”保良宮(ほらのみや)”(759年造営、現晴嵐小学校付近)の裏鬼門に当たるので「保良宮の守護神」であったと言われています。後には後白河天皇の命により「石山寺祈護の宮」として勧請(石山寺記録中之巻三)の説もあります。近世に至り膳所藩本田家の崇敬も篤く、千年を超えて国分の人々により産土神・氏神、「お宮さん」として守られてきました。


【祭神】

【境内社】

<洞神社・山神神社>

洞(ほら)神社 祭神 高龗神 タカオカミノカミ:(水の神様) 明治43年(1910年)に現境内に遷祀。山神神社 祭神 大山祀命 オオヤマツミ:(山の神様)大正三年に洞神社に合祀。水の神、山の神を祀り農事・山仕事の安全と五穀豊穣、家庭の繁栄、安全安心の神様です。

<雨壺神社>

天之水分神:アメノミクマリノカミ(雨・水の神様)、天之久比奢
持神 アメノクヒザモチノカミ(灌漑の神様)、国之水分神クニノミクマリノカミ(雨・水の神様)、国之久比奢持神クニノクヒザモチノカミ(灌漑の神様)明治43年(1910年)遷祀され雨乞い・雨止め、天候や子安の神様です

<英霊殿>

国分地域の明治以来の戦没者全ての英霊を祀り、毎年3月には慰霊祭が催行されます。今年度も国分町にお住いの戦没者方々32名の慰霊と恒久的平和を祈願しました。

【境内の見どころ】

<獅子狛犬>

獅子・狛犬は祭神をお守りするために本殿前や参道脇に置かれています。獅子・狛犬像としての最古の物は平安初期にまで遡るそうです。当社本殿前の石造りの獅子・狛犬は昭和8年(1933年)に寄進されたもので、獅子は左前足で宝玉を押さえています。なお、本殿内には木造の獅子狛犬が伝わっています。

<神門>

神門は、明治3年(1870年)の膳所城廃城の折に藩主本多家より寄進されたものです。膳所城三の丸の米倉の前にあったもので欅の一木造りの薬医門とされています。今も屋根には本多家の家紋である“立ち葵”の飾り瓦が残されていて面影を残しています。現在の門は昭和61年(1986年)に大幅な修理が施されたもので、門扉は平成27年(2015年)に改められました。

 

<幻住庵>

【創建・由緒】

「奥の細道」の旅を終えた翌年の元禄3年(1690)3月頃から、膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水(すがぬまきょくすい)の奨めで同年4月6日から約4ヶ月間隠棲した小庵です。ここで「奥の細道」に次いで著名で、「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる「幻住庵記」(げんじゅうあんき)を著しました。 
元は曲水の伯父幻住老人(げんじゅうろうじん)菅沼定知(さだとも)の別荘で、没後放置されていたのを手直しして提供したものであり、近津尾神社境内にあります。「幻住庵」の名前の由来も幻住老人の名に由来します。芭蕉は当時の印象を「いとど神さび」と表現しましたが、その趣は21世紀の今も変わらず残っています。現在の建物は平成3年(1991年)9月に芭蕉没後300年記念事業「ふるさと吟遊芭蕉の里」の一環で復元したものになります。

<幻住庵表門>

現在の幻住庵の表門は、平成3年(1991年)9月に、建物とともに芭蕉没後300年記念事業「ふるさと吟遊芭蕉の里」の一環で復元したものになります。

<境内にある椎の木>

「先づ頼む椎の木も有り夏木立(まずたのむしいのきもありなつこだち)」幻住庵記

今も境内社務所の横には、大きな椎の木と句碑があります。

 

                                 左から①句碑(芭蕉翁150回忌記念1843年建立)②椎の木(当  

                                 時の幼木)③芭蕉翁幻住庵跡の碑(1772年建立)④芭蕉翁経塚

                                 の碑(1781年建立)

<とくとくの清水>

 せせらぎの散策路には、とくとくの清水(しみず)があります。

幻住庵記に「たまたま心なる時は谷の清水を汲みてみづから炊ぐ(かしぐ)」芭蕉が自炊していた痕跡 ”で水が湧き出でいます。

 

<せせらぎの散策路>

散策路は神社北側の駐車場から幻住庵まで続いています。散策路横には、その名のとおり「とくとくの清水」からの湧き水が流れています。この散策路に沿って15基の句碑が並んでいます。そのうち10基は芭蕉翁の花木を読んだ句が陶板に焼き付けられ、句碑の横には句にちなんだ花木が植えられています。それらに交じって5基の石碑があり、こちらには現代句が刻まれています。瀬せせらぎの音と共に上り坂の辛さを忘れさせてくれます。

 


<勧請祭>

年頭行事である勧請祭は、地域の無病息災と五穀豊穣を祈願する祭事です。勧請縄や勧請吊りとも言われています。また、その風習や形状(大きさ、場所、縄、飾りつけなど)は、地域毎で大きく違っています。

地域の分布は、滋賀県、奈良県、京都府、三重県が多く、特に滋賀県の湖東から湖南、大津にかけて、古くから勧請祭が盛んに行われています。当神社は、縄に榊(さかき)を束ねて、国分町の出入口(国分1丁目石碑)・神社の表参道入口・当家(とうや)宅に花吊りを行います。

【関連する見どころ】

《ほらの前の礎石(通称へそ石)》

周辺には石山寺や近江国分寺、瀬田川対岸には近江国庁があり環境も整っており、国分2丁目には「へそ石」とよばれる保良宮の礎石に使われる予定であったと思われる石が残っています。(境内外・国分団地バス停近く)

 

<保良宮>

(天平宝字5年(745)~天平宝字8年(764)) 所在地:滋賀県大津市国分周辺 47代淳仁天皇 在位:天平宝字2年(758)~天平宝字8年(764保良宮(ほらのみや)は、奈良時代に近江国(滋賀県)に淳仁天皇が営んだ宮で、平城京の北の都「北京」(ほくきょう)とされ、保良京、保良離宮とも呼ばれ、短期ではあったが孝謙上皇、淳仁天皇、藤原仲麻呂や道鏡が集まった所でもありました。琵琶湖から流れ出す瀬田川右岸に位置し、滋賀県大津市の石山国分遺跡の周辺に比定する説が有力です。周辺からは築地塀の跡や平城京と共通の瓦が出土しており関連した施設の跡であると考えられました。

<松尾芭蕉像>

JR石山駅と京阪電車石山駅間の2階の駅広場には、東海道を旅した松尾芭蕉の銅像があります。芭蕉が、4か月間過ごした幻住庵には、この石山駅から路線バスで行くことができます。


<義仲寺>

国指定史跡である義仲寺は、大津市馬場1丁目にあり、旧東海道に沿っています。朝日将軍木曽(源)義仲(きそよしなか)の墓所とともに、松尾芭蕉の墓所となっています。芭蕉は、元禄7年(1694年)10月12日,大坂の旅窓で亡くなりましたが、奥の細道の旅の後、しきりに来訪し宿舎としています。「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言で当寺に墓が建立されました。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作であり、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめくる」など、境内には多くの句碑があります。

 

<石山寺>

石山寺は東寺真言宗別格本山の寺格を持つ勅願寺であり西国八十八カ所の第十三番観音霊場。創建は古く天平宝字3年(759)平城京の北都「保良宮」造営の折に鎮護寺として良弁僧正によって開基されたとする。奈良時代から皇室・貴族等の参詣が盛んで頼朝、秀吉・淀君らからの寄進された遺物が多く残ります。近津尾神社もまた保良宮の祈願の社となり、国分寺の鎮護社を経て石山寺の鎮護社となりました。両者の関係は「石山寺要記・年代記録」などに詳しく載せられています。祭の折には、神社からの石山寺へ神輿が巡行したと言われています。長い交流の末、明治の神仏分離の混乱の折に近津尾神社の本地仏である阿弥陀如来坐像が石山寺に預けられています。

 

<国分聖徳太子堂>

近津尾神社に隣接した山上には、国分聖徳太子堂が建立しています。ここには聖徳太子2歳の姿を現した「南無仏太子像」(なむぶつたいしぞう)(高さ55cm、県指定文化財)が奉られています。太子像は、聖徳太子(574~622年)没後700年を記念して1321年につくられたとされています。もともとは、京都府八幡市の岩清水八幡宮にありましたが、明治初期の廃仏毀釈で大津市国分に移されました。毎年、5月開催の例大祭にご開帳されています。